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答え10020
梶原景時の家紋は「並び矢」。合戦当時は平家方であったが、石橋山の戦い(1180(治承4年)8月)で敗れ洞窟に隠れていた頼朝を見逃したことで、後に重用される。平家討伐では義経を補佐したが、後に対立。頼朝の死後は北条氏、三浦氏などとも対立し、排斥された。(引用:「家紋の世界」イースト・プレス発行)
答え10019
答えは「月星紋」。桓武平氏の流れを汲む、下総国の豪族。平家打倒を掲げて挙兵した頼朝が、石橋山の戦い(1180(治承4年)8月)に敗れて安房国に逃れるとこれに加勢、一族と共に頼朝を助ける。鎌倉幕府の世には各地に領土を持つ大豪族となった。千葉一族に関しては下記サイトをご参照ください。http://members.jcom.home.ne.jp/bamen/index.htm (引用:「家紋の世界」イースト・プレス発行)
答え10018
源頼朝の家紋は「笹竜胆」。鎌倉幕府の創設者。1180年に挙兵し、鎌倉を本拠に合戦を挑んだ。幕府を開いてからは優れた政治手腕を発揮する一方、利害が衝突すれば討伐する冷徹な面も見せた。それは義経や義仲などの血縁も例外ではない。(引用:「家紋の世界」イースト・プレス発行)
答え10017
答えは「蝙蝠紋」。農作業の害となる小さな虫を一日に数百も食べることから蚊喰鳥といわれる。幸福のシンボルとされる鳥だが、なぜかコウモリの文様・家紋はあまり多く見られない。江戸後期「歌舞伎役者の七代目市川團十朗が蝙蝠の柄を流行らせた」というのが、数少ない記録の一つ。また、長崎のカステラ屋「福砂屋」がロゴとして使用、「日本石油(現 新日本石油)」もかつて商標として用いていたことがあったりした。広島県福山市は蝙蝠山に福山城があることにちなんで、コウモリのデザインを市章として使用している。「(引用:「家紋を探る」森本景一 著)
答え10016
答えは「釘抜き紋」。大釘を抜くために用いていた、中心部がくり抜かれた板状の形で、梃子の原理を利用して使ったとされている目結紋とよく似た家紋である。もともとは、釘を抜く際に座金のように使用されていたので、「釘抜き座紋」であったといわれている。この紋名のように、未だ誰にも気づかれていない語呂合わせを秘めた家紋がまだまだあるかも知れない。(引用:「家紋を探る」森本景一 著)
答え10015
答えは「外側から内側へと読む」。家紋名の読み方は外側に付加されたものから内側へと読んでいく。例えば「丸に亀甲に花角」「組合角に丸に三つ鱗」というように。これらは原形となる絵柄に外枠が付け加えられ、変化してきた過程を表しているともいえるだろう。(引用:「家紋を探る」森本景一 著)
答え10014
答えは「諸大夫家(しょだいぶけ)」。王朝国家における諸大夫は、四位までしか昇進出来ない家格の低い官人をいうのだが、官制機構の実質的な運営の担い手であり、また清少納言や紫式部など王朝文化における傑出した人物をだした階層である。(引用:「家紋から日本の歴史を探る」(株)インデックス発行、wikipedia)
答え10013
答えは「清華家(せいが)」。摂家に次ぐ家格を持ち、太政大臣まで昇任できる。もとは久我家・三条家・西園寺家・徳大寺家・花山院家・大炊御門家・今出川家の七家だったが、後に醍醐家と広幡家が加わり九家となる。明治時代は別称を華族といった。(引用:「家紋から日本の歴史を探る」(株)インデックス発行)
答え10012
答えは「名家(めいけ)」。羽林家に次ぐ家格で、学問や文章などの一般官僚的な職務に携わった。十三家と呼ばれる家をはじめとする諸家がある。(引用:「家紋から日本の歴史を探る」(株)インデックス発行)
答え10011
答えは「羽林家(うりんけ)」。この家柄は、大納言、中納言、参議をはじめ、近衛中将などを兼ねる。江戸期には二十八家にまで増えた。(引用:「家紋から日本の歴史を探る」(株)インデックス発行)
答え10010
答えは「大臣家(だいじんけ)」。家格は清華家に次ぎ、正親町三条(嵯峨)家・三条西家・中院家をいう。左右大臣まで昇任でき、太政大臣にも昇れるという。武官の最高峰である近衛大将にはなれないため、文官のイメージが強い。(引用:「家紋から日本の歴史を探る」(株)インデックス発行)
答え10009
答えは「摂家(せっけ)」。公家の最高位で、摂関・関白に昇任できる。九条家・近衛家・一条家・二条家・鷹司家の五家がそれで、いずれも藤原北家の流れを汲む。平安末期に九条家・近衛家が成立し、後にそれぞれの家から三家が成立した。家紋は九条家・一条家・二条家が藤紋、近衛家・鷹司家は牡丹紋である。(引用:「家紋から日本の歴史を探る」(株)インデックス発行)
答え10008
答えは「竜胆紋」。葉が笹に似ているので、一名「ササリンドウ」とも呼ばれる。竜胆とは中国語で、根を噛むと苦く、竜の胆のようだというのでこの字を当てた。根茎と根を乾燥したものを竜胆(りゅうたん)と呼んで、苦味健胃薬として利用されている。この竜胆が『万葉集』では「想い草」として出てくるのだが、この呼び名の方がはるかに美しく、日本人の感性の素晴らしさが伝わるようだ。
答え10007
答えは「笹竜胆紋」。平家打倒を掲げた以仁(もちひと)王に呼応して挙兵し、倶利伽羅峠の戦い(1183(寿永2年))で平家軍を破る。上洛するものの治安回復に失敗し、後白河法皇と不和になる。その後、頼朝と対立し、宇治川の戦い(1184(寿永3年1月))で後白河法皇の密使を受けた義経軍に破れ、京都からの敗走中に戦死。よりともの従兄弟にあたる。
答え10006
答えは「揚羽蝶紋」。伊勢平氏の出自で、平家政権全盛期の家長。婚姻政策を駆使して天皇家とのつながりを深め、その地位を確固たるものとしたが、源頼朝が平家打倒の兵を挙げたわずか1年後に熱病にかかり呆気なく死去してしまう。
答え10005
答えは鷹司家。五摂家とは鎌倉時代に藤原氏が立てた近衛家、鷹司家、九条家、二条家、一条家のことである。大化改新で活躍した中臣鎌足(614〜669)が、中大兄皇子が天皇になったとき、臣下として最高の大織冠の位と「藤原」の姓を与えられた。以来、絶大なる力を千年以上も持ち続け、現在でも宮内庁の侍従には藤原氏の子孫が多いといわれている。
答え10004
答えは「梅紋」。学問の神様で有名な菅原道真公を祀った天神さまの御紋は梅紋である。これは道真の梅花好みからおこったようだ。「月は曜いて晴雪の如し 梅花は照る星に似たり」という歌が『北野縁起』に残っている。道真11歳の時の歌というのも驚きだが、よほどに梅が好きだったのだろう。
答え10003
答えは賀茂神社。葵紋といえば誰でもすぐ思い出すのは徳川家のご紋であろう。しかし元々は京都の賀茂神社の神草として有名で、5月15日におこなわれる葵祭りには、牛車などにも飾られる。
昔は賀茂神社の奥山に多く自生しており、上社の祭神・別雷神(わけいづちのかみ)をお迎えする時に、この草で身を飾ったことから神紋として用いている。
答え10002
答えは控え紋。家によっては一種だけではなく数種の家紋を持つこともあります。これは婚姻により妻の実家の紋を女紋としたり、戦功などの褒美として賜ったり、場合によっては当主の好みの文様を取入れたりなど様々な理由によります。
使い分けとしては、正式の場所で使用するいわば公的に使用する紋を定紋といい、その他の私的に用いる紋を幅紋、控え紋、添え紋などと呼んで使用していました。
答え10001
答えは鷹の羽紋。基本パターンだけで350〜400種類あるといわれる家紋の中で、日本の五大家紋といわれるのは…藤紋、桐紋、木瓜紋、片喰紋と鷹の羽紋です。五つのうち四つが植物紋となっており、日本人がいかに日常を植物と共にしていたか垣間見えます。

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