家紋マークのドムーシールやキーホルダーを作っちゃおう!! お目当ての家紋を探して、家紋の立体シール(エンブレムシール)、メタルドームキーホルダー、ハメパチキーホルダーを注文できます。
勝海舟の家紋は「竪二つ引両」。
勝海舟の家紋は「丸に剣花菱」。
板垣退助の家紋は「土佐桐」。
大久保利通(一蔵)の家紋は「三つ藤巴」。
西郷吉之助(隆盛)の家紋は「抱き菊の葉に菊」。
*隆盛の家紋についての詳細はこちらをご参照ください。「一本気新聞」
(引用:日本家紋総鑑など)
(引用:よくわかる!名字と家紋(PHP研究所))
(参考文献:名字の謎(新潮OH文庫)、よくわかる!名字と家紋(PHP研究所))
(引用:戦国武将の「家紋」がよくわかる本(PHP研究所))
(引用:名字の謎 森岡 浩 著)
(引用:「家紋から日本の歴史を探る」(株)インデックス発行)
政治家の家紋 10(森喜朗)
政治家の家紋 9-2(麻生太郎)
政治家の家紋 9(小沢一郎)
政治家の家紋 8(小泉純一郎)
政治家の家紋 7(菅直人)
政治家の家紋 6(鳩山由紀夫)
政治家の家紋 5(安倍晋三)
政治家の家紋 4(大仁田厚)
政治家の家紋 3(世耕弘成)
政治家の家紋 2(河野太郎)
政治家の家紋 1(橋下徹)
徳川家の家紋施した瓦片を特集展示 市郷土文化館/小田原
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刀差し、よろいに家紋も 坂東市のキャラ決定「将門くん」
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大河ドラマ「八重の桜」と家紋 14
勝海舟の家紋は「竪二つ引両」。
会津藩家老・神保内蔵助の長男。幼いころから容姿閑雅、学問に優れ「秀才」とうたわれる。京都守護職では公用方(外交官)として活躍。坂本龍馬や伊藤博文などとも交流が深い。軍事奉行添役に任じられた後も、大政奉還や王政復古など激動する政局に揺るぐことなく、多くの人々が主戦論を掲げる中、不戦恭順論を徳川慶喜に建言、江戸に帰り善後策を練ることを説く。戦争の最中、慶喜や容保などが兵を見捨て江戸へ逃走すると、恭順を進言した修理に批判が集中、そのことから、敗戦を招いた張本人として、弁明の機会も与えられぬまま切腹を命じられる。(NHK公式サイトより)
※「八重の桜」では神保修理の家紋は竪三つ引両となっておりますが、諸資料から判断いたしますと竪二つ引両と推察されますので、当店では竪二つ引両といたしました。
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大河ドラマ「八重の桜」と家紋 13
勝海舟の家紋は「丸に剣花菱」。
佐久間象山とともに覚馬の洋学の師。1860(万延元)年、咸臨丸で日本人初の太平洋横断に成功する。帰国後、軍艦奉行に就任。鳥羽・伏見の戦いで江戸に逃げ帰った徳川慶喜の命を受け、総責任者として徳川家の存続に奔走。その結果、会津藩が徳川家の身代わりとなる。維新後に帰国した新島襄には学校設立を手伝う。襄の死後、八重に頼まれ墓に揮毫(きごう)する。その半生を徳川家や旧幕臣に経済援助をするなど、徳川のために尽くす。(NHK公式サイトより)
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『家紋大事典』が刊行されました
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大河ドラマ「八重の桜」と家紋 12
板垣退助の家紋は「土佐桐」。
土佐藩士・乾正成の嫡男。後藤象二郎とは幼なじみ。同藩脱藩浪士の坂本龍馬や中岡慎太郎の影響で倒幕派に転じる。戊辰戦争では東山道先鋒総督府参謀として甲州勝沼で近藤勇率いる新選組を撃破、軍略家の才能を発揮し、会津討伐の指揮官となる。維新後、新政府の参議となるが征韓論に敗れ、西郷隆盛とともに下野、自由民権運動を推進する。「板垣死すとも自由は死せず」で知られる、遊説中に暴漢に襲われた岐阜事件の折、新島襄は板垣を見舞っている。(NHK公式サイトより)
※本人が「板垣死すとも自由は死せず」と言っていないとの説もあり。
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大河ドラマ「八重の桜」と家紋 11
大久保利通(一蔵)の家紋は「三つ藤巴」。
明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される。また維新の十傑の1人でもある。その遺族は、華族令当初から侯爵に叙されたが、これは旧大名家、公家以外では、木戸孝允の遺族とともにただ二家のみであった。。(wikipediaより)
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大河ドラマ「八重の桜」と家紋 10
西郷吉之助(隆盛)の家紋は「抱き菊の葉に菊」。
*隆盛の家紋についての詳細はこちらをご参照ください。「一本気新聞」
薩摩藩下級武士の家に生まれたが、開明君主と名高い島津斉彬に見いだされ、早くから他藩の諸士と交わる。佐久間象山のもとを訪れた際、覚馬と出会う。斉彬の死後、二度の遠島処分を経て倒幕運動の中心人物になり、会津藩、そして覚馬と敵対する立場に。しかし、鳥羽・伏見の戦いで捕らえられ、後にその地が同志社大学となる薩摩屋敷に幽閉された覚馬が口述筆記した「管見」に深い感銘を受ける。新政府の中心人物として会津攻めを推進するが、1877(明治10)年の西南戦争では逆の立場となり、旧会津藩士たちの恨みを一身に受ける。(NHK公式サイトより)
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丹波新聞 | 家紋
用があって森田家の家紋を調べることがあった。 昔から仏間に飾ってあるこのマークを見て育ったが、 「変な鳥」 くらいにしか思っていなかった。 調べてみるとちゃんと名前がある。 「丸に結び雁金 (かりがね)」。 雁は古来、 「幸せを運ぶ鳥」 として知られていたようで、 雁紋を使用した武家も多い。 有名どころで言えば、 織田信長の重臣、 柴田勝家か。……
詳しくはこちら(丹波新聞)
田中土佐(たなかとさ)の家紋は「角輪違い」
会津藩家老。幼少時に父を亡くし家督を相続、藩主・松平容敬の側役となる。16歳で武官の最高位・番頭に就任。文官としても家老に上った。容敬の没後は、藩主を継いだ容保に仕え、その上洛に従う。「鳥羽・伏見の戦い」ののち、会津が朝敵の汚名を着せられると、新政府に嘆願書の提出を試みるが失敗。会津の「甲賀町口郭門の戦い」で死闘の末に自刃した。(NHK公式サイトより)
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田中土佐(たなかとさ)の家紋は「角輪違い」
会津藩家老。幼少時に父を亡くし家督を相続、藩主・松平容敬の側役となる。16歳で武官の最高位・番頭に就任。文官としても家老に上った。容敬の没後は、藩主を継いだ容保に仕え、その上洛に従う。「鳥羽・伏見の戦い」ののち、会津が朝敵の汚名を着せられると、新政府に嘆願書の提出を試みるが失敗。会津の「甲賀町口郭門の戦い」で死闘の末に自刃した。(NHK公式サイトより)
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佐川官兵衛(さがわかんべえ)の家紋は「三つ目」
京都守護職では、市中警備のため藩の子弟により結成された「別撰組」を率いる。性格は勇猛果敢、武勇に秀でているが人情にも厚かった。後に山川大蔵は「佐川の人望は薩摩における西郷のようだ」と語った。鳥羽・伏見の戦いでは、退却するときも悠然と傘をさしていたことから、敵味方に「鬼の官兵衛」「鬼官」などとたたえられた。会津戦争では会津最強の朱雀隊・四番士中隊を率いて各地を転戦、降伏しても最後まで戦い続ける。西南戦争では旧藩士を率いて戦い、壮絶な最期を遂げる。(NHK公式サイトより)
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梶原平馬(かじわらへいま)の家紋は「丸に違い矢」
会津藩家老。藩主・松平容保が京都守護職在任中は側近として活躍。戊辰戦争では抜群の折衝能力を発揮し、奥羽越列藩同盟の成立に多大なる貢献を果たした。 維新後は、長らく消息が不明になっていたが、後年(1988年)北海道の根室市で墓が発見された。(幕末ガイドより)
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山川大蔵(やまかわおおくら)の家紋は「三つ藤巴」
会津藩家老。明治以降は山川浩(やまかわひろし)と改名。会津の山川兄弟のひとり。(姉に山川二葉、弟に山川健次郎、妹に大山捨松)。 戊辰戦争では、大鳥圭介率いる旧幕府軍副総督として奮戦。また故郷・会津において、新政府軍に包囲された若松城に、会津の伝統芸能「彼岸獅子」の一行に扮して見事入城したのはあまりにも有名なエピソードである。 明治維新後は、陸軍少佐となり佐賀の乱、西南戦争での鎮圧で功績を残す。(幕末ガイドより)
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吉田松陰の家紋は「五瓜に卍」
長州藩藩校・明倫館の兵学教授。通称・寅次郎。江戸遊学の際、山本覚馬も学ぶ佐久間象山塾に入り、後の長岡藩大参事・小林虎三郎と共に「象山門下の二虎」と呼ばれる。東北を旅した松陰は会津を訪れ、藩校・日新館を見学した。その後、黒船来航に衝撃を受け、海外渡航を企てるが失敗。密航事件に連座し、師・象山も国元蟄居となり、塾は解散することになる。帰郷し萩の自宅蟄居中、松下村塾を開き若き長州藩士たちに学問を教える。松陰の処刑後、彼らが長州藩政を揺るがし、明治維新の起爆剤となっていく。その後、会津と徹底的に敵対していくのは、皮肉にも松陰の愛弟子たちである。(NHK八重の桜より)
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川崎尚之助の家紋は「隅切り角に片喰」。
川崎尚之助は八重の一度目の結婚相手です。
但馬出石藩医家のうまれで、蘭学と舎密術(理化学)を修めた若くて有能な洋学者でした。尚之助は会津藩校日新館に蘭学所が設置されたことを知り、八重の兄・覚馬を訪ねます。覚馬が尚之助の才能を見抜き仕官を薦め、尚之助がそれに応じて教授を務めることになりました。その縁で山本家に寄宿するようになり、のちに八重と結婚。尚之助と覚馬の深い繋がりを見ると、覚馬が八重と尚之助の結婚を進めたことは想像できます。しかしそれだけではなく、博識で才能溢れる兄を尊敬していた八重自身も、どこか兄に重なる尚之助に自然と心惹かれたのではないでしょうか。
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会津藩家老 西郷頼母の家紋は「角九曜(並び九曜)」。
万延元年(1860年)、家督と家老職を継いで藩主・松平容保に仕えた。文久2年(1862年)、幕府から京都守護職就任を要請された容保に対し、政局に巻き込まれる懸念から辞退を進言したために、容保の怒りを買う。その後も、藩の請け負った京都守護の責務に対して否定的な姿勢を覆さず、禁門の変が起きる直前に上京して藩士たちに帰国を説いている。ところが、賛同されずに帰国を強いられた。しかも、家老職まで解任された上に、蟄居させられる。この解任理由は、無断上京を咎められたからとも言うが定かではない。その後、他の家老たちの間で頼母の罪を赦してはどうかと話し合われてもいる。
菊池氏族西郷氏。家紋は鷹の羽、また保科家の並び九曜紋を許されていた。明治維新後は保科 頼母(ほしな たのも)と改名。号を栖雲、または酔月、晩年は八握髯翁と号した。講道館柔道草創期の講道館四天王の一人である西郷四郎は養子である。(Wikipediaより)
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八重の家紋は「丸に隅立て四つ目」。
会津藩山本家は甲斐武田家の軍師である山本勘助が先祖。という説もあるようだが、であれば家紋は「三つ巴」となるはず。しかし、同様のことが旗本の山本諸家で伝えられているので、おそらく見栄えをよくするためのに作られた系図であると思われる。八重の苗字は『新島』で知られるが、これは結婚後の姓であるので、物語の現時点ではまだ生家の『山本』であり、一話の劇中、八重の兄である山本覚馬が、「丸に隅立て四つ目」の紋付を着ていたことからわかるように八重の家の紋は「丸に隅立て四つ目」である。
ちなみに新島家の家紋は『丸に根笹』。新島襄の紋である。
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形状を分類すると、一つ花房(藤輪、一つ藤の丸)、二つ花房(上がり藤、下がり藤、二つ藤巴)、三つ花房、四つ花房、五つ花房、六つ花房となります。但しこれは花房の数によって分類したもので、その他花の数、軸に付く数など色々な種類がみられる。 使用家としては、讃岐の大野氏が下がり藤丸に三階松を使用したのが史籍上最初で、摂津の伊丹氏、河内の由佐氏が下がり藤に文字を加えた紋を用い、他に美濃の伊賀氏、播磨の小寺氏なども『見聞諸家紋』に載っている。 その他、公家の九条、二条、一条、醍醐など多くの諸家も藤紋を用いていました。
(引用:日本家紋総鑑など)
鎌倉時代に武士の間で用いられるようになった家紋は、その後、各地の神社に広がっていきます。最初は神社の社殿や祭具に文様を描くことからはじまりました。それは、神話に基づく図案や、祭神にかかわりを持つ植物なとをモチーフにするのが一般的でした。 この神社の紋を神紋といいます。 神紋は、稲荷神社、八幡神社、天満宮、諏訪神社など、神社の系統ごとに共通のモチーフが用いられました。つまり、天満宮は梅を使った神紋のバリエーション、八幡神社は巴の神紋のバリエーションというように、神紋から神様の系統が見分けられるというわけです。 後に庶民に家紋が広まった要因のひとつとしてこの神紋の果たす役割は大きかったと思われます。古代から氏神を祀っていた庶民にとって、神社はなじみ深い処であり、参拝の折りに神紋を目にし「自分の家にも紋章がほしい」と考えたのは自然なことだったでしょう。そして自家の家紋を考案するにあたって神様の御神徳にあやかろうとして神紋をまねる者があったり、それでは恐れ多いというので独自の家紋を作ったりと、家紋が数・種類共に増えていったと考えられます。
(引用:よくわかる!名字と家紋(PHP研究所))
日本人の名字は、漢字2文字から成るものが大半で、全体の8割り以上を占めています。かたや4文字以上は1%に満たないといわれています。 もっとも長い名字は漢字5文字で、勘解由小路(かでのこうじ)と左衛門三郎(さえもんさぶろう)の2つとされています。(近年の調査では10種近くあるともいわれている) 勘解由小路家は正保元年(1644)に公家の烏丸光弘の二男が分家して興した家で、京都の勘解由小路の地名にちなんで姓としました。 もう一つの左衛門三郎は、京都の左衛門府という役所を守る下級武士のある家の三男が左衛門三郎と名乗ったのが始めとされているが、確実な発祥はわかっていません。ちなみに家紋は「鶴の丸紋」です。 反対に短い名字は1文字で、これは林、森、原など多くあります。中でも読みも一字の名字は?というと「紀(き)」姓があります。紀姓は古くからある名字で古代豪族と神官の二流があり、古代豪族かの紀姓からは「土佐日記」の紀貫之が有名です。 他の一字性としましては、「井(い)」姓、「何(が)」姓、「瀬」「野」「喜」「尾」「津」「場」など以外と多く一字読み姓があります。
(参考文献:名字の謎(新潮OH文庫)、よくわかる!名字と家紋(PHP研究所))
源頼朝の命により武士が家紋をつけたのは、逆落しで有名な「一の谷の合戦」(1184)(鵯越の説もある)でのことといわれています。 鎧直垂(よろいひただれ)と旗に家紋をつけたことで、誰が戦功者か、一目でわかるようになりました。当時多くの者は家紋を持っていなかったので、頼朝が紋柄を指示し作っていました。ちなみにこの一の谷の合戦では、平氏側も家紋を用いています。 合戦場では遠くから見ても判別しやすいように、また勇猛さを示す意味でも大胆で力強い、シンプルな図柄が好まれました。(引用:よくわかる!名字と家紋(PHP研究所)) のちに鎌倉幕府が成立すると、幕府は御家人の名字を登録する際に家紋も一緒に登録させました。こうやって平安貴族の印は御家人の家紋となり、それを真似て御家人以外の武士にも家紋が広まっていきました。
(引用:よくわかる!名字と家紋(PHP研究所))
皇室には、菊をあしらった菊紋が用いられています。菊は平安時代より貴族の間で好まれた花で、別名翁草、齢草などと呼ばれ、衣服や調度品の文様としても多く用いられていました。 なかでも鎌倉時代初期、後鳥羽上皇は菊を大変愛された事で有名であり、また歌人としても活躍し、さらに絵画や音楽を楽しむ文化人としても知られており、自分の持ち物に菊の文様を描かせていました。
上皇が菊の文様を使うようになると、他の公家は上皇への遠慮から自分の家紋に菊の文様を使用する事をやめるようになりました。しかし後々菊紋は皇室に受け継がれ、後宇多天皇のときに正式な紋章と定められました。 現在は「十六弁八重表菊紋」を天皇の用いる正式な紋章とされ(明治2年の太政官布告によって正式に定められた)、ほかの皇族の紋章は十四弁一重裏菊紋が定められ、各宮家は、菊の変形紋を用いることとなりました。 特に法的に定められている訳ではないですが、菊花紋章がそれに準ずる日本の紋章としてパスポートなどに使用されている。(桐紋も使われることもあります。)
(引用:よくわかる!名字と家紋(PHP研究所))
新選組隊士の家紋のご紹介です。歴史上でこれほどの人物がひとつのグループ(隊)に属し活躍するのも、めずらしい事かと思いますが、今回は私の独断と偏見で9人の隊士の家紋を掲載させて頂きます。
現在の日本の天皇と皇室の紋章である「十六弁八重表菊紋」は、16枚の花弁を持つ八重菊を図案化したもので、明治2年(1869)の太政官布告によって正式に定められました。このとき、ほかの皇族の紋章には「十四弁一重裏菊紋」が定められ、各宮家は、菊の変形紋を用いることになりました。 菊の御紋章は、天皇の衣服や調度品に使われるほかに、国家的な権威づけにも使用され、戦前の紙幣や切手などに印刷されていました。 現在は、在外公館の玄関に菊の紋章が施されているほか、勲章、パスポートの表紙などに菊花紋が使用されています。 *天皇家のもともとの家紋は「日月(じつげつ)紋」で、現在も皇室で使用されています。
(引用:戦国武将の「家紋」がよくわかる本(PHP研究所))
平安時代の日本人は、「氏」という自分が属する血族集団の中で生きていました。氏は出身地・職業によるもの、天皇から賜ったものなど様々ですが、この「氏」の代表格が『源平藤橘』、つまり、源氏、平氏、藤原氏、橘氏の四大氏です。 そして時代が下るにつれこれらの氏族は全国に広がり、それぞれの地名・地形、役職などを冠する姓を名乗るようになりました。 各地に分散した氏族たちは、姓の拡大・変化とともに始祖が使っていた文様を自分の家の紋としました。 こうして自分の出自を明らかにし、さらに誇りに思う心が家紋を広めていきました。 最後に『源平藤橘』の代表紋を見てみましょう。 源氏は笹竜胆紋、平氏は揚羽蝶紋、藤原氏は下がり藤紋、橘氏は橘紋。これらが時代と共に様々な派生・変形を繰り返し二万とも三万ともいわれる家紋が生まれました。
(引用:戦国武将の「家紋」がよくわかる本(PHP研究所))
「昼間」という珍しい名字があります。関東地方に多い姓で、5000世帯近くあるともいわれ、それほど稀少な名字ともいえないようです。「昼間」という名字は地名でも地形でも、まして職業でもなく、いかにも安易な名字なので、明治時代にできた新姓のようですが、実は由来のはっきりした由緒正しい名字なのです。 天正19年(1591年)徳川家康は豊臣秀吉から陸奥への出陣を命じられ、武蔵国岩付城(現在の崎玉県岩槻市)に入りました。このとき、夜中に川を渡ることになってしまいました。その際、村民が篝火を焚き、川岸に松明をならべて川面を照らして、家康の渡河を助けたといいます。家康はこの処置に対して「さながら白昼の明るさ」と喜び、彼らに「昼間」という名字を与えました。 現在、「昼間」姓は埼玉県の南部に多く、とくに大宮・八潮など南東部に分布しています。なお、「昼」の旧字体の「晝」は「書」と似ているため、しばしば「書間」と誤記されます。ですから、難読姓事典などでも、「書間」で「ひるま」と読みがふられていることがあります。
また昼間さんの使用家紋は「丸に三つ柏」、「左三つ巴」などが埼玉県では多く、東京では「丸に違い鷹の羽」が多く見られます。一方、「夜」という字のついた「夜交」という名字があります。こちらは「よまぜ」と読み、やはり由緒正しい名字です。
夜交は、信濃国高井郡夜交(現在の長野県山ノ内町)発祥の地名姓で、藤原氏の子孫と伝えます。南北朝時代(14世紀)に足利氏に仕えた中野氏の一族がこの地に住んで夜交を名字としました。戦国時代は武田信玄に仕え、武田氏の滅亡後は上杉氏の家臣となり、江戸時代には米沢藩士となりました。
明治以降は、「夜交」から「世間瀬」に漢字を替えてしまった家が多いようです。
(引用:名字の謎 森岡 浩 著)
●頭合わせ・尻合わせ 「頭合わせ」は、同じ紋が二つ以上で、紋の頭にあたる部分を合わせたもの。「尻合わせ」 はその逆。
●ほかの紋との合成 異なる紋同土を合成したもの。縁がある紋同士が合成される場合と、結婚などにより両家の紋が合成される場合がある。総じて「複紋」と呼ぶ。江戸時代には恋人同士が互いの家紋を合成することが流行り、これをとくに「比翼紋」と呼んだ。
●分割・省略 「分割」は、一つの紋を複数に分割したもの。「省略」は、オリジナルの一部を取り出したもの。
以上のように、さまざまな変形パターンがある。このおかげで、オリジナルの家紋が尚武的になったり女性的になったり、あるいはソフトになったりユニークになったりしている。家紋の豊かなデザイン性は、こうした変化によるといえるだろう。
(引用:「家紋から日本の歴史を探る」(株)インデックス発行)
●対い 同じ紋が二つ向かい合っているもの。鶴や鳩などの場合、片方が口を開け、もう片方が閉じて「阿吽」を表している。
●抱き 同じ紋が二つ下方で交差したり、繋がったりしているもの。対いと違うのは、抱き合っているようにみえることである。
●遣い 同じ紋が二つ交差したもの。
●並び 同じ紋が二つ以上並んでいる。
●盛り 同じ紋を三つ以上盛ったもの。奇数で、三角形を描くものが多い。
●重ね 同じ紋を二つ以上用い、一部を重ねたもの。
●寄せ 同じ紋を三つ以上用い、中心に向けて配置したもの。
●追い 同じ紋を二つ以上用いて、隣の紋を追いかけているように配置したもの。
●豆 オリジナルを小さくしたもの。糸輪で囲んだものが多く見うれる。
(引用:「家紋から日本の歴史を探る」(株)インデックス発行)
●横見 オリジナルを横かう見たもの。花紋に用いられる場合、茎やがくも描かれていることが多い。
●似せ ほかの家紋に似せたもの。蝶や桐に似せたものが多く見られる。
●覗き 輪郭の下方から家紋が覗いているもの。
●光琳 風江戸時代の絵師・尾形光琳が属した琳派の作風で描かれたもの。
●折れ 花弁や葉、羽芯どを折って描いたもの。
●上下 上下を逆にしたもの。
●結び 紋を、紐を結んだような形にしたもの。
●浮線 オリジナルを蝶のようにデザインしたもの。浮線とは「浮線綾」のことで、有職文様の代表的なものである。糸を浮かせて織るため、この名がついた。主に蝶をモチーフにした円形であることから、家紋ではオリジナルを蝶のように丸く描くものを指すようになった。
(引用:「家紋から日本の歴史を探る」(株)インデックス発行)
●陰 家紋を線で描くのみにして、黒く染めないもの。明るく軽やかなイメージになる。
●石持ち オリジナルを黒丸(石持ち)で囲み、反転させたもの。石持ちとは本来「黒餅」のことだが、黒が石に通じて「石高(収穫した米穀の数量のこと)」に繋がり、縁起を担ぐ意味で石持ちと呼ぶようになったという。
●八重 花紋に多く見られる、花弁が重なっているもの。
●裏 花紋や植物紋の裏側を描いたもの。茎が描かれる。
●鬼 植物紋で、葉のふちをぎざぎざにしたもの。触れば傷つくかのような鋭さから、「鬼」の名がついたと考えられる。
●向う オリジナルを真正面(真上)から見たもの。花紋に多く、しべが描かれているものがよく見られる。
●捻じ オリジナルを捻り、一部分を重ねたもの。
(引用:「家紋から日本の歴史を探る」(株)インデックス発行)
変形を繰り返し、数を増やしていった家紋ですが、輪で囲む、線で描くのみで黒く染めないなど、変形パターンに法則性を見出すことができます。むろん、はじめからパターン化されていたわけではないです。普及し増えていくに従って系統立てられ、それに則して変形するようになっていったようです。その後は、新しい変形パターンが現れると、ほかの家紋にも広がっていったものと思われます。変形パターンのうち、基本的なものを挙げてみましょう。
●輪(丸)を付加 オリジナルを輪で囲むもの。輪は太さによって太輪・中輪・細輪・糸輪・毛輸に分かれる。 太輪と中輸の中間を「丸に〜」といい、これが輸の基本のようだ。
●角を付加 オリジナルを正方形で囲むもの。九十度傾けて立てたものや、隅をカットしたものなども見られる。
●剣を付加 オリジナルの隙間にディフォルメした剣を配置したもの。花紋や植物紋に多く見られる。
●蔓を付加 オリジナルの隙聞に蔓を配置したもの。見た目、西洋風なイメージが強くなる。当然とでもいおうか、花紋や植物紋に多い。
(引用:「家紋から日本の歴史を探る」(株)インデックス発行)
現在、家紋は二万種類あるといわれている。代々受け継いでいるだけであったら、こうまで増えないだろう。家紋は、たとえば本家と分家、主と家臣などの間で少しずつ形が変わり、増えていったのだ。 本家と分家の場合、次男以下が分家となる際、本家の家紋を少々変化させた紋を作る例が多い。主と家臣の場合も、主と仰ぐ家の紋を変形させて用いる。平氏が「揚羽蝶」の紋を用いていたとして、平氏の末裔を主張する家々が「蝶紋」を用いたことは、主と家臣という間柄ではないが、この例に含めていいだろう。こうして作られた新しい家紋は、いずれの場合も本家あるいは主家と関わりがあることを知らせる役割を担っていた。 このほかに「菊紋」のような事例もある。これは、定紋として用いている天皇家と区別する目的から、種類が増えていった紋である。
(引用:「家紋から日本の歴史を探る」(株)インデックス発行)
1.定紋、替紋、女紋 何事にも公私の別があるものだが、これは家紋にもあてはまる。江戸時代、大名の家紋に見られた公に用いる定紋(別称・表紋、本紋、正紋)と、私用の際につける替紋(別称・裏紋、副紋、別紋、控紋)がそれである。 江戸幕府は、それぞれの家が使っている家紋のうち、メインの紋を届け出ることを定めた。これが定紋である。一方、替紋は届け出の必要がない非公式の紋だ。複数所持している家が多く、これは主君から下賜される例を筆頭に、家督の相続、婚姻などにより増えていった。非公式の紋といえばもう一つ、女紋が挙げられる。これは女性のみが受け継ぐ紋で、婚家に持っていき娘に継がせる。一般的に母方の紋のことといわれるが、地方によっては実家の紋を女紋とすることもある。この場合、もととなる紋が「剣」などの男性的な猛々しい紋であれば新しく作り、雄々しさを排除ーーたとえば「剣木瓜」であったら剣を除くこともあったという。ほかにも、細い線で描く陰紋、細い輪の中に紋を小さく描く豆紋、家紋の一部を描いた覗き紋などがある。
(引用:「家紋から日本の歴史を探る」(株)インデックス発行)
斜めの串に団子が三つ刺さった「因幡団子」や「つなぎ団子」「丸に二つ串団子」などがありますが、そのバリエーションも多くはなく、珍しい家紋のひとつでしょう。 またこの紋は珍しいだけでなく次のようないわくが伝えられています。 「織田信長と今川義元が合戦の折、陣中で酒宴の最中、信長が山内幸政に団子を三つ串刺しにして、敵の首をこのようにして獲ってみよと賜った。幸政はこれを頂き、功名を挙げ以後、串団子を家紋としたという」(日本家紋総鑑) 単なる後付けの伝承だろうとの見解もありますが、ホラー映画に負けず劣らぬの恐ろしい話と思いませんか。 と思えば一方、京都の花街、祗園甲部、祗園東、上七軒、先斗町、宮川町などには今でも提灯などに団子の紋が見られますが、ここには心温まる話も残っております。 祗園甲部では嘉永四年(1851)当時、八つの町があったので町名の頭文字をつないで円形の紋章にしておりました。円を繋ぐことで団結を表したのでしょう。 その後明治になり、その円を団子に置き換えて、現在の「つなぎ団子に甲の字」となりました。 また祗園東でも茶店時代の由緒から、今もなお「つなぎ団子」が用いられています。 祗園以外でも、上七軒では豊臣秀吉が天正十五年(1587)に催した「北野大茶湯」でお茶屋も多いに強力したので、その褒美として御手洗団子を売る特権を与えられました。これにちなんで「五つ団子(抱き五つ団子)」を使うようになりました。 このように京都の花街では、血なまぐさい経緯ではなく褒美や地域の団結の印として「団子紋」が伝えられています。 ちなみに、先斗町は「千鳥紋」、宮川町「三つ輪紋」が使われています。
(引用:よくわかる!名字と家紋(PHP研究所))
源頼朝の命により武士が家紋をつけたのは、逆落しで有名な「一の谷の合戦」(1184)(鵯越の説もある)でのことといわれています。 鎧直垂(よろいひただれ)と旗に家紋をつけたことで、誰が戦功者か、一目でわかるようになりました。当時多くの者は家紋を持っていなかったので、頼朝が紋柄を指示し作っていました。ちなみにこの一の谷の合戦では、平氏側も家紋を用いています。 合戦場では遠くから見ても判別しやすいように、また勇猛さを示す意味でも大胆で力強い、シンプルな図柄が好まれました。(引用:よくわかる!名字と家紋(PHP研究所)) のちに鎌倉幕府が成立すると、幕府は御家人の名字を登録する際に家紋も一緒に登録させました。こうやって平安貴族の印は御家人の家紋となり、それを真似て御家人以外の武士にも家紋が広まっていきました。
(引用:よくわかる!名字と家紋(PHP研究所))
皇室には、菊をあしらった菊紋が用いられています。菊は平安時代より貴族の間で好まれた花で、別名翁草、齢草などと呼ばれ、衣服や調度品の文様としても多く用いられていました。 なかでも鎌倉時代初期、後鳥羽上皇は菊を大変愛された事で有名であり、また歌人としても活躍し、さらに絵画や音楽を楽しむ文化人としても知られており、自分の持ち物に菊の文様を描かせていました。
上皇が菊の文様を使うようになると、他の公家は上皇への遠慮から自分の家紋に菊の文様を使用する事をやめるようになりました。しかし後々菊紋は皇室に受け継がれ、後宇多天皇のときに正式な紋章と定められました。 現在は「十六弁八重表菊紋」を天皇の用いる正式な紋章とされ(明治2年の太政官布告によって正式に定められた)、ほかの皇族の紋章は十四弁一重裏菊紋が定められ、各宮家は、菊の変形紋を用いることとなりました。 特に法的に定められている訳ではないですが、菊花紋章がそれに準ずる日本の紋章としてパスポートなどに使用されている。(桐紋も使われることもあります。)
(引用:よくわかる!名字と家紋(PHP研究所))
蛇の目紋は武士が好んで用いた尚武紋のひとつで、当時の代表的武具である弓の弦を巻き付ける弦巻という道具を図案化したものです。 賤ヶ岳七本槍の一人として有名な加藤清正も、蛇の目紋を家紋に採用しています。ほかにも、細川家、京極家、石川家など、約50家もの大名が蛇の目紋を用いています。 その他の尚武紋としましては、古くから武具として使用されていた矢を描いた並び矢、三つ矢(三つ矢サイダーで有名)、違い矢などがあげられます。 また合戦場で軍勢を采配するために使用された軍配団扇紋も好んで用いられた家紋です。この紋は武蔵七党の小玉党の代表家紋となっています。現在も軍配団扇紋は関東地方に多く分布しています。 団扇(扇)紋の種類としては、日常で使う扇形の丸扇、羽でできた羽団扇、軍事で使用する楕円形の軍配団扇があります。
(引用:よくわかる!名字と家紋(PHP研究所))
武士の間にも家紋が広まったのは、平安時代末期の源平合戦がきっかけでした。当時味方同士の相打ちを防ぐ意味でも、敵味方の区別をつけるため、竿の先に布をつけた旗を掲げていました。また勝利を祈願する意味もあったと考えられます。 このとき源氏は白旗、平氏は赤旗を掲げていました。
(引用:よくわかる!名字と家紋(PHP研究所))
家紋は、平安時代の貴族たちが移動手段のおもなる方法として使用していた牛車につけたことが始まりとされています。宮廷などに多くの牛車が集まった折りに牛車の置き場所(駐車位置)でトラブルが生じないよう、一目で家格が判るように付けられたと考えられます。牛車の印は、藤原実季(さねすえ)が、三巴紋をつけたのが最初と言われています。
(引用:よくわかる!名字と家紋(PHP研究所))