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家紋や名字、その他「和」に関するミニコラム

    <京都市伏見区>秀吉の伏見城跡か 石垣や金箔瓦見つかる

      秀吉の伏見城か

       豊臣秀吉が隠居所として1592年に造営を始めた伏見城(指月<しげつ>城)跡とみられる大規模な石垣や大量の金箔(きんぱく)瓦片が京都市伏見区で見つかった。民間発掘会社「京都平安文化財」が18日発表した。指月城は完成後まもなく大地震で倒壊し、近くの木幡(こはた)山に移転。資料が少ないため、「実は存在しなかった」との説もある「幻の城」だった。専門家は「指月城の存在を決定づける極めて重要な発見」としている。(中略)
       石垣は2012年に京都市上京区で確認された聚楽第(じゅらくだい)や、大坂城本丸跡の石垣と似た手法で積まれ、金箔瓦も聚楽第周辺から出土した瓦と同様、豊臣家の家紋「五七の桐(きり)」の文様が刻まれていた。。(後略)(ヤフーニュースより)
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    新車の愛称は「さなだどりーむ号」 上田電鉄

       2015年6月13日(土)、上田電鉄(長野県上田市)は新型車両6000系について、愛称が「さなだどりーむ号」に決定したと発表しました。
       島根県の佐藤祐也さんが命名し、その理由は「真田幸村の赤備えをイメージした車両なので苗字を使い、まるまどりーむ号のような柔らかみのある愛称としました」とのこと。上田は戦国大名・真田氏の本拠地。また上田電鉄ではかつて昭和初期に製造された「丸窓電車」が人気を集め、それが引退した現在も、「丸窓電車」をイメージした「まるまどりーむ号」という車両が運行されています。(後略)(ヤフーニュースより)
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    長宗我部盛親、悲哀と意地 没後400年、歴史ファン魅了

       豊臣氏が滅亡した大坂夏の陣(1615年)から400年の節目を迎えた。大坂方として奮戦し、京都で処刑された土佐の武将・長宗我部盛親。家の再興を念じながら散り、武士の悲哀を漂わせる。関ケ原合戦後、洛中で蟄居(ちっきょ)していた時期もあり、京都とはゆかりが深い。11日の命日(旧暦5月15日)を前に、墓がある蓮光寺(京都市下京区)でこのほど営まれた没後400年法要には多くの参列者が訪れた。今も歴史ファンが魅了される盛親の人生を京都から振り返る。(中略)
       ・長宗我部盛親(1575〜1615年) 土佐の大名。四国統一を成し遂げた長宗我部元親の四男。長男・信親の戦死で、次男、三男を差し置いて跡を継ぐ。1600年の関ケ原の戦いでは西軍に付いて敗戦。長宗我部家は取りつぶされ、大岩祐夢(幽夢)と名乗って京都で蟄居。大坂の陣では豊臣方として夏の陣で奮戦したが、落城後、八幡で捕らえられ、京都の六条河原で斬首。蓮光寺に葬られた。(ヤフーニュースより)
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    「おもてなし」の心で作るピクトグラム

        2020年東京五輪・パラリンピックに向け、政府が災害時の避難場所を示す図記号「ピクトグラム」を全国的に統一した上で、国際規格への登録を目指す作業を進めている。外国人旅行者でも意味が理解できるピクトグラムは、1964年の東京五輪の際に活用され、世界に広まった。政府は20年大会を機に、東日本大震災を経験した国として世界に分かりやすい避難場所のピクトグラムを発信・普及させたい考えだ。(中略)
      「トイレ」「食堂」…東京五輪で誕生
       外国人観光客が迷わないための案内表示は、1964年五輪でも大きな課題だった。この時に誕生したのが、絵文字による案内表示「ピクトグラム」だ。
       「日本には何千種類の家紋があるので、伝統的遺産を活用して、外国人が困らないよう、誰が見ても分かるものを作ろう」。勝見の呼びかけで、当時、第一線で活躍するデザイナー11人が集まった。赤坂離宮(現在の迎賓館)の一室で、テーマごとに方眼用紙にデザインを描いては、壁に貼って修正を加える。シャワーを知らないデザイナーが、実物を見るためホテルに出向いたこともあった。
       制作に約4か月かけ、今ではおなじみのトイレや食堂など39種類のピクトグラムを完成させた。「社会に還元すべきだ」という勝見の考えで著作権を放棄したため、世界中に広がった。(後略)(ヤフーニュースより)
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    武者絵幟下絵60点、栃木・佐野の民家で発見 「文化伝える貴重な資料」

       5月の節句でこいのぼりとともに屋外に飾られた武者絵幟(のぼり)の下絵約60点が、幟を製作していた佐野市の屏風(びょうぶ)製造業、和田健次さん(81)宅で見つかった。武者絵幟の絵師が不在となった現在、ひな人形やこいのぼりなど特定期間だけ売れる際物(きわもの)の生産地と知られてきた佐野の貴重な郷土資料といえそうだ。(中略)
       佐野では初節句に親類が武者絵幟に家紋を入れて贈る習わしがあったが、少子化と住宅地が手狭となった影響でこいのぼりを揚げる習慣がなくなり、武者絵幟の風習は姿を消した。(後略)(ヤフーニュースより)
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    屋形船、蛇の目紋のちょうちん飾り付け 大洲ウ飼い

      梶原一騎丸に違い鷹の羽紋

       明治時代の日本の産業遺産に今、改めて光が当たっている。早ければ6月中にも23施設が、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界文化遺産に正式登録されそうだ。だが、忘れてはいけない。近代日本の産業遺産を保存する動きには、破格のスケールを誇る大先輩がいる。ちょうど半世紀前にオープンした「博物館 明治村」(愛知県犬山市)である。
      ■財界人と建築家。明治生まれの同級生2人の酒席が生んだ破格の企画
       名古屋鉄道などが中心となって1965年(昭和40年)3月、高度経済成長の影で消えゆく明治時代の建造物をそのまま残す「野外博物館」として発足した。テーマパークの先駆けでもある。最初に移築保存したのは15件だったが、現在は蒸気機関車など動態保存された車両や橋梁を含めた67件(10施設を含む12件が国の重要文化財に指定)に増え、敷地面積も2倍近い100万平方メートルに広がっている。(後略)(日本経済新聞より)
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    "豊臣亡命政権"樹立!? 加藤清正が熊本城に込めた密かな「野望」

       西南戦争で西郷隆盛が攻め落とすことができなかった難攻不落の城、熊本城。豊臣秀吉の家臣であった猛将・加藤清正が築いたこの城には、隠された「野望」があった――。
       そんな歴史の裏側を解き明かすのが、BS朝日「歴史ミステリー 日本の城見聞録 熊本城 大坂城 姫路城 豊臣秀吉 野望実現の生涯」(6月7日21:00〜22:54)だ。俳優の篠井英介さんが城案内人となり、さまざまな城建築の背景に迫る。(中略)
       さらに、その証となりそうなものが、室内の飾り金具の中にある。それが、ふすまの取っ手だ。隣接する若松の間との境のふすまの取っ手に、豊臣家の家紋である桐文が刻まれている。そしてそのまわりには、加藤家の紋である一重菊や桔梗が、四方を守るように配置されているのだ。加藤家が豊臣家を守る――そんな風に、読み解くことができるかもしれない。(後略)(ヤフーニュースより)
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